ローカルキャリア研究所

top-thumbnail
キャリアとは「何を目指すのか」というより「どうありたいか」だと思う
リサーチ

長野県塩尻市役所地方創生推進課

三枝 大祐

編集者
編集者



岩手県釜石市
二宮 雄岳 さん

釜石リージョナルコーディネーター協議会
総括マネジメント(釜援隊 隊長)
中小企業診断士・1級販売士








二宮 雄岳 さんの経歴






大学卒業後


東京農業大学を卒業後、転職を経て信用金庫に24年間勤務する。






転機2011年
3月11日


東日本大震災発生。
社会や公的なものに貢献したいという思いが強くなる。






転機2014年10月


釜援隊に入り、リージョナルコーディネーターとして活動を始める。






2016年7月~
現在


釜援隊隊長として活動中。







キャリアとは「何を目指すのか」というより「どうありたいか」だと思う。



岩手県釜石市。かつて製鉄業で発展し、遠洋漁業の漁業基地としても繁栄してきた。産業に恵まれたまちである一方で、しばしば津波の被害に見舞われてきたまちでもある。2011年3月11日の東日本大震災では壊滅的な被害を受け、7年近くが経過した今も復興への歩みは続いている。復興の重点がハード面からソフト面へ徐々に変化していく釜石で、二宮さんは、2014年から釜石リージョナルコーディネーター、通称「釜援隊」の隊員として活動している。


釜援隊とは、「復興を加速する」「まちづくりの黒衣(くろこ)になる」「多様な『個』を『公』に生かす」という理念の下、2013年に総務省の復興支援員制度を利用して釜石市が発足した組織で、住民や行政、企業、NPOなどまちづくりに関わるさまざまな人や組織をつなぎ、まちづくりを推進する「まちづくりの調整役」である。隊員はあくまで「黒衣」であり、地域おこし協力隊のように「自分がする」のではなく、「したい人をサポートする」役割を担っている。








二宮さんが就任直後に担当したのは、平田地区の生活応援センターという、釜石市に8ヶ所あるコミュニティ形成支援の最前線の部署だった。団地型の災害公営住宅が建てられたものの、「いままで戸建てに住んでいた人ばかりで、集合住宅に暮らすことに不慣れな人が多い」という平田地区。こうした住環境の変化に対して、どのようなことが必要なのかを探るため、全戸を訪問して回り、住民と社会福祉協議会などの困りごとを解決する先を繋ぐとともに、住民自身がそうした組織に要望を出せるように自治会を「組織化」するコーディネートを行い、最終的に住民が自立的・持続的に地域の課題を掘り起こし、人と組織を繋げ、同じ目線で本音を話せる場を設計することで、住民の当時者意識を醸成していくのだ。


二宮さんは2016年から釜援隊の隊長となり、現在もいくつかのプロジェクトを担当しつつ、コミュニティ形成支援系隊員のマネジメントや財務管理といったコーポレートの役割も果たしている。




社会に貢献したい、という気持ちが転機を呼んだ



東京農業大学で学び、学生時代は研究職も考えていたという二宮さんだが、就職・転職を経て信用金庫で24年勤めた後、釜援隊に入ることを選択した。


信用金庫では、預金や融資の窓口業務を始め、法人担当総括として自ら法人取引の新規開拓に取り組みながら、担当常務の右腕として数字の管理や後進の指導といった幅広い職務を経験。短期的な数字の成果を上げながら、自分の営業スタイルを確立していった。だが、勤続20年、45歳の時に転機が訪れる。東日本大震災だ。「いままでの経験を生かして社会に貢献したい」という想いを抱き始めたちょうどその時、釜援隊の募集を知った。月に一度程度は神奈川県に暮らす家族の元に戻る以外は、釜援隊で活動する日々が始まった。




信用金庫時代の体験が生きる



釜援隊の活動で役に立っていることは、信用金庫時代のコンサルティング業務と顧客と交渉した経験だという。


各組織・地域との打ち合わせで「事業が本当にニーズにあっているのか」「連携すべき主体や検討すべき主体はどこか」「そもそもどのようにマネタイズしなければいけないのか」など、ロジカルなアドバイスができるのは、信用金庫での事業者に対するコンサルティング業務経験や、中小企業診断士や一級販売士の資格を取得するために積み重ねた学びがあるからだ。



コーディネーターとして地域コミュニティの中に入る際には、毅然とした交渉が必要になる場合もある。例えば、商店街に関わる100以上の事業主が集う協議会では、行政と対等に対話するために商店街として「何を行いたいのか」「何を要求し、また自ら何をしなければならないか」「メリットはなにか、デメリットはなにか」を事業者自身に責任と覚悟を持って考えてもらうため、議論を徹底して詰めていく。


「既にドミノは揃っていて、最初のコマを押すことと、コマとコマの間にある障害物を取り除いていくこと。それさえすれば、後は自然と進んで行く。進んでいった先に障害物があるのであれば、またどうするか考えたら良い。だから、最初は慎重に、少し労力をかけて作業をする。半歩先を歩きながら、主体に判断をしてもらって先に進んでもらう。自らの足で歩き始めたら、隣に並んで歩く。歩きながら同じ風景を見て、何が必要かを一緒に考える。そのうち、半歩後ろを歩くようにしながら、自走できるように見守っていく。そのように、半歩前後を歩けるようにしながら、自走を助けるのが我々の仕事です」。







二宮さんは言う。「そこでやるべきだから、やる。やることを、やる」。
この言葉には、覚悟を超えた、二宮さんの信念のようなものが込められているように感じた。そして彼の行動や考え方が、「支援される」「やってくれて当たり前」の文脈で語られがちな「被災地」の意識を大きく変えていると思う。




「何を目指すのか」というより「どうありたいか」がキャリアの本質



「年齢的に若い人なら復興コーディネーターという経験はキャリア形成と言えるのかもしれない。しかし、この年齢になると世の中にはキャリアを“捨てて”と映るらしい。だから『その地域に思い入れがある』とか、何かしら合理的な理由がないと理解しにくいのだろう」と二宮さんは言う。二宮さんにとっては、どこであろうが、「『転職だから当たり前なのに』としか思っていない」のだ。「釜石から一番はじめにお声掛けをいただいたのでここにいる。それが大船渡であれば“船援隊”になっていたかも知れない」。二宮さんにとっては、キャリアとは、「何を目指すのか」というより「どうありたいか」という方がしっくりくるのだと言うのだ。


二宮さんのローカルキャリア。それは、本当の意味で釜石の未来を考えた二宮さんと、地域の人や組織が結びついて生まれた。二宮さんにしかできない、二宮さんだけのローカルキャリアなのではないだろうか。







次のキャリアは常に開いている



着任当初、二宮さんは、家族と最長5年という約束をして、釜石に出てきている。だから来年あたりにはなんらかの決断をしなければならない。「できれば、早く帰って家族と暮らしたいというだけですよ」と語る二宮さんだが、釜援隊の次のキャリアはまだ明確ではない。自分が手がけたことをさまざまな場所で話す機会が増えてきたため、その中で声がかかれば、釜石を離れた後でそこで仕事をしてもよいと思っているのだそうだ。金融機関に復帰するといった選択肢もあるという。


二宮さんは、釜援隊での自分の仕事を定量化しようとしている。「釜石を離れるときに持っていた自分自身のスキルから、来たときに持っていたスキルを差し引いて残ったものが、釜援隊を5年間行なった結果」だと二宮さんは考えている。「これまでやってきた仕事のスキルを客体化し、仕事が定量的な数値で表せられるようになると、仕事の金額的な価値が表現できる。自分はいくらの仕事を行なってきて、いくらの仕事ができると言えることがこれから大切になるだろう」と二宮さんは考えている。




レポーターより



私自身、東日本大震災でいわゆる「被災地」と呼ばれる土地に入ったことがなく、その視点で物事を考えたいという思いがあった。塩尻市と釜石市の違いや、塩尻市に活かせる部分はどこかという行政としての視点、そして自分自身も民間から転職を行った立場としての視点、そして何より二宮さん自身を知るという自分の中で大切にしたい視点というように、見る視点が多く、それらの視点を交えながらのインタビューは大変だった。しかし、二宮さんの行っていることや信条などを通して、それぞれの視点にとても感銘を受けた。二宮さんとの出会いは、私にとって激烈な経験となったことは間違いない。










この記事を書いた人

三枝 大祐 Daisuke Saigusa

長野県塩尻市役所地方創生推進課

地方創生推進係

編集者

タグ

この投稿にはタグがついていません。

CAREER FOR